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無知と無能の間に

無知無能者、固人之所不免也

青年海外協力隊、隊員の生態〜その10〜ボランティア精神とはなにか

青年海外協力隊制度 国際貢献

ここまで協力隊員のブログから垣間見える違和感を並べてみた。すべてがうまく行くわけではないし、優れた人間だけが協力隊員になるわけではない。それは理解できる。ただそれでも、釈然としないものがある。そこで、もう一度原点にかえって「ボランティア精神」について考えてみる。

アメリカ合衆国の考えるボランティアスピリット

米国人は、強制されたり利益を求めたりしてボランティア活動に参加するわけではない。そこに差し迫ったニーズがあることを見て取り、自ら進んで、そのニーズを満たす責務を担いたいと考えるからである。しかし、この責務とは別に日常の仕事や務めがあるし、金銭的報酬が得られるものでもないため、ボランティア自身、自分たちの仕事の重要性を過小評価していることが多い。

ボランティア活動は米国の伝統(駐日アメリカ大使館)

駐日アメリカ大使館のWEBサイトにボランティア活動について掲載されている文からの引用だ。自国の精神の現れとして(宣伝、建前論であっても)、ボランティア精神はアメリカの原点の一つだということなのだろう。

アメリカというより、キリスト教社会にはボランティア精神というものが習慣化するまで刷り込まれているといえる。一方で、日本人の場合はどうか。

ヒーローになりたい

ここで、もうひとつ、文章を引用する。

ここで、ある震災地の対策室の担当者から聞いた話を紹介します。   「対策室には、『私は医者ですが、そちらにボランティアとして参画したい』という電話がひっきりなしに入るんですよ。そんな人の大部分は、『貧しい民に施しを与える正義の味方』として市長や市民から大歓迎され、特別待遇を受けられると期待しているんです。言葉の端々から、『美談のヒーロー扱い』への大きな期待がうかがえます。しかし、緊急対策室にはそんな余裕はまったくありません。ボランティアの大原則は、『被災地側に負担を掛けない』です。食事、水、交通手段、寝袋などすべて自腹で用意・確保したうえで、被災地へ来て、病人やけが人の治療をする。そんな人でないと来ていただきたくありませんし、役に立ちません。そうお話しすると、言葉に詰まる人も多くいますよ。困った人を助けるには、被災者とともに厳しい現実に向かう覚悟と救援物資が必要なのです」。

―――震災地ボランティアと遅延プロジェクトの回復

ヒーローになりたい・・・これも一つの承認欲求の現れだ。ただ、承認を求める事は悪ではない。

ここであえて「奉仕」という言葉を使う。そもそも人への奉仕というのはどういう作法なのか。

「台風に備えて排水溝のどぶさらいをする」「門前の落ち葉を掃除をする」「共同地に落ちているゴミを拾う」「雪が積もったら、雪かきをして動線を確保する」

誰からも感謝されない。誰かに誇ることでもない。でも誰かがやらないと結局みんなが困る。そして誰かが「やらないとまずい」と思って、まず身近なところから始める。それが奉仕の精神だ(あえて、断言)。

逆に言えば、個人が持つ(純粋な)奉仕の精神で、できることはここまでなのだ。自分の生活の一部に、ほんの少し他者への配慮を加えること。普通の生活の中では、それだけしかできないのだ。

しかし、一度大きな災害が発生するれば多くの人が困っている状況なる。貧しくて経済的に行き詰まっている国では日々の生活に困窮する人がいる現状がある。それを見聞きすれば自分でも何かできることがあるのではと感じるのは自然なことだ。しかし、通常の生活を送りながらその一部を奉仕に費やしても、いや一人の人間がすべてを持ち込んだとしても、残念ながらこのような大きな課題の改善にはつながらない。

大きな課題に取り組むためには、人を集め組織し、物資と資金を集めなければならなくなる。物資と資金を調達するには、自分たちの活動の正当性を「宣伝」する必要もでてくる。要するに「ボランティア活動」を「事業」として行う必要にどうしても迫られることになる。ボランティア団体を組織化し、そこに専従者を置く。経済原則から見ても、これが効率的だからだ。

しかし、ここに対立が生まれる。「ボランティア活動」に集中し専任で活動するということ(協力隊の場合は原則2年間)は、それまでの仕事、生活、収入獲得手段を放棄して専念するということだ。これを言い換えると、専任としてのボランティア活動に参加している人間は、他人の労働に依存して自分の生活を運営し、さらに他人の労働よる生産物の剰余を困窮している人達に分配する役割をやっている存在だ、ということだ。ボランティアを語る人達に向けて、「単なる自己満足」「利己主義」「偽善的」という言葉を投げつける理論付は、これだ。「なぜ、人に労働を任せていながら、人の生産物の分配を行っているのか」と。ある種の公務員叩き(←「俺たちの税金で食わしてやってるんだからもっと働け」という人々)と通底する理屈でもある。そしてこれは、以下のような言葉を投げかけられる人が現れる動機となりうる。

「人の労働に依存しながら、いい顔してんじゃねーよ」

「ありがたい話はするけど、結局、意識高い系の物乞いだよね」

「ボランティアの連中は、なんであんなに偉そうに自分の活動を語るんだろう」

「人に褒めて欲しくて、そなことやっているの?」

この本音主義の皆さま方から寄せられるご意見ついてボランティア側はどう立ち向かおうとしているのか。

協力隊の生みの親の伴正一から引用する。

「それでは海外での協力活動は、奉仕とは言っても究極的には自分のためのものにすぎないのか」 という最終的な反問、極限的な課題との対決を迫られる。

―――伴正一「ボランティアスピリット」P.34

明確に、はっきりと、ボランティアは自分たちの活動と、「単なる自己満足」「自分のエゴ」といった批判に対決することを伴氏は予見している。

しかし、今回、協力隊隊員のブログに綴られた言葉から、そのような自分の中に起こるであろう対決を、一つとして読み取ることはできなかった。自己を肥大化させるためにブログを書いていただけだ。自分と対決していれば、そもそもブログを書いている暇はないのだから。