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無知と無能の間に

無知無能者、固人之所不免也

青年海外協力隊、隊員の生態〜その12〜まとめ

青年海外協力隊制度 国際貢献

読み解く鍵として、「自己実現」「ボランティア精神」「ブログ発信」

自己実現

再度述べるが、「国際協力における海外ボランティア活動の有効性の検証」の報告によると、協力隊への参加動機は「自分のために」とする隊員が圧倒的に多いと指摘している。要するに「自己実現」のための協力隊参加が主流だとしている。同じことが、参議院『青年海外協力隊事業の再構築に向けて』「立法と調査 318号」」でも引用されている。ここでも「実際に活動するボランティアの意識は第一義的に『自己の経験の獲得』、『スキルアップの場』とする考え方が支配的で、現地の社会・経済への貢献という意識は希薄ないし懐疑的である」としている。

ポイントは、JICAはこの状況を把握し、対外的レポートに包み隠さず報告していることだ。この姿勢は、隊員の「自己実現」のための参加を追認していると言ってもいいのではないか。

「ボランティア精神」をどう考えているのか

答え、あまり考えていない。挑発的に過ぎるが、そのように読み取れる。ここで紹介した彼らは、「恐らく本人たちは協力隊に参加しているのであるから、ボランティア精神は当然自分の中に持っている」ということなのだろう。もちろん、ボランティア精神について言及しているブログもある。自分が協力隊員として相応しいかどうかを自問してそれをブログ記事にしている例も数は少ないが存在する(例証は意図してあげない)。

協力隊員のブログ発信

協力隊員のブログ発信とはどういうものか。ブログやSNSは、コミュニケーションツールであるが、「コミュニケーションのコストを徹底的に下げた仕組み」でもある。ブログやSNSでの情報発信というのは、コストはほぼゼロといっていい。ただし炎上しなければ。炎上してもアクセスを稼ぎたいという場合もあるが。

無名の人間が昼にどんなランチを食べたかレポートして通行人の興味を引くのは、高いスキル(文章力とか炎上力とか)が必要だが、途上国での風景、風習、日常というのはそれだけで人々の耳目を集める。炒めた虫でも食べればそれだけでパンチの効いたコンテンツになりうる。

単に、途上国紹介だけであれば、旅行日記ブログと同じであるが、協力隊のブログに関しては、別の特徴をみえる。それは、協力隊に興味を持っている人物を想定読者としていることだ。数多くのブログで、協力隊に関心を持つ人が持つであろう質問に応えている形式の記載が少なからずある。今回引用しなかった協力隊員のブログでも数多く見受けられた。ネットが発達する以前から、数少ない途上国の情報を報告書なり口頭伝承のような形で行ってきていたのだろう。それがネット社会になって、途上国にもネットの波が押し寄せ、協力隊員のブログやSNSでの情報伝達が一般化し、可視化されるようになったということだ。

協力隊であれば、派遣される国まで限定すればブログを書いている人数も数えるほどになり、競争も少ない。競争が少ないというのは、検索して自分のブログが上位に表示され、読んでもらえる可能性が高まるということだ。しかも現地のナマの数少ない情報が提供されるとあって、読者側の満足度も高まることも容易に想像できる。現地での活動がうまくいっていなくても(それこそ活動をしていなくても)、ブログ記事をアップすることで、高い承認欲求を満たすことができる。事実、「人に読んでもらうのが至上の喜び」と表現していたブログもあるし、「アクセスランキング(クリックで上位を競わせるあの卑しいボタン)」に参加しているブログも数多くある。

安易な承認欲求を満たす行為だともいえる。協力隊で2年間経歴に穴を空けるという賭けに対して、ネットによる情報発信というほぼコストのかからない方法で回収しているともいえる。であれば、その手の協力隊員たちが、リスクの低い「現職参加」をやたらと推薦するのも合点がいく。経済合理性を追求した姿だ。また本来なすべき現地活動の成果が無い(あるいは少ない)ことへ、自己正当化する口実を与える結果にもなっている。

オープン化した情報引き継ぎシステム

恩送り」という考えがある。ここでは詳しく議論しないが、協力隊員のブログ記事の書き方を見ていると、この恩送りシステムが骨格としてあるようだ。どういうことか。まず、協力隊に参加するということを工程に書き表してみる。

「協力隊制度を知る」⇒「関心を持つ」⇒「情報収集する」⇒「参加を決意する」⇒「受験する」⇒「訓練所に入る」⇒「現地に赴く」⇒「現地で活動する」⇒「帰国する」⇒「次の進路を決める」・・・

そしてこの協力隊工程のフローがそのまま協力隊隊員のブログ記事の構成になっているということだ。協力隊員のブログには暗黙のテンプレートが存在し、そのトピックに従って個々に記事を書いているともいえる。テンプレートがあるの利点は、これが制約となり、何を書くかということに漠然と悩む必要がなくなる。

ブログを書く協力隊員が、「協力隊に興味を持っている人物を想定読者として質問に応えている形式の記載が少なからずある」と述べた。工程の各キーとなるポイントで、「自分はどういう選択をしたのか」「想定読者である、これから協力隊に参加する者はどういう選択をすべきか」をアドバイスとして記事にアップするものだ(「後から振り返ると」という記述パターンも数多い)。

どこの職場でも前任者が後任者に仕事を引き継ぐ時に、引き継ぎ事項や、申し送り事項をまとめている仕事と同じ構造がそこにある。恐らく、ネットでのコミュニケーションが普及する以前から同様のことが行われてきたのだろうが、ブログによって可視化されるようになった。そして「仕事」として行われる「引き継ぎ」は対価が給与として支払われるが、協力隊員のブログには(表面的には)金銭の交換が発生しない。当然、ブログを書いている隊員は、自分が参加する際に、現地で活動する際にネットで情報収集を散々やったはずだ。彼らは自分の得た知識を後輩に渡すこと(贈与)を暗黙の合意のうちに実施している。

つまり協力隊員にとってブログを書くという行為は、「前代から引き継いだ情報を更新し、それを次代の協力隊員へ贈与する」という暗黙のシステムを可視化したものだ。「協力隊の実態」「みたままをレポート」「事実を忠実に書くことを心がける」などという、謎のキーワードを使うブログが多数存在するのも、この「情報引き継ぎシステム」なるものに支配されているからだ。次代の協力隊を自分の情報源に引き寄せるための宣伝文句とも言える。安い週刊誌が書く「スクープ」「独占」と同じだ。要するに彼らは、システムに対する最も忠実な下僕なのだ。

動物化する協力隊員

 コジェーヴは、戦後のアメリカで台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼ぶ。このような強い表現が使われるのは、ヘーゲル哲学独特の「人間」の規定と関係してる。ヘーゲルによれば(より正確にはコジェーヴが解釈するヘーゲルによれば)ホモ・サピエンスはそのままで人間的なわけではない。人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなければならない。

 対して動物は、つねに自然と調和して生きている。したがって、消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後アメリカの消費社会は、彼の用語では、人間的というよりむしろ「動物的」と呼ばれることになる。そこには飢えも争いもないが、かわりに哲学もない。「歴史の終わりのあと、人間は彼らの記念碑や橋やトンネルを建設するとしても、それは鳥が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散するようなものであろう」と、コジューヴは苛立たしげに記している。

―――東浩紀動物化するポストモダン

すでに散々書いたが、ブログを通じて見える協力隊員の姿は、ある程度決まった工程に従って体験を消費してくものだ。システムのレールに乗り、カフェテリア形式の食堂で好きなものを選ぶように、協力隊の活動・途上国でのイベントを選択し消費していく。それはまさにコジェーヴがアメリカの消費社会を「動物」と呼んだものと同じではないのか。

より具体的(過激)に表現するのであれば「畜化する協力隊員」と言い切ってもいい。そしてまた繰り返すが、協力隊員によるブログ、SNSを通じた情報発信と承認欲求の回収により、極めて安価なコストで自己実現を果たしている。そしてその自己実現は参加動機そのものでもある。

まとめ

  • 協力隊員の参加動機は「自己実現」であり、「自分を満たすため」である
  • 協力隊員は工程に従って協力隊を体験することでボランティア活動体験サービスを消費する「動物化」した存在である
  • JICAはこのような隊員の姿勢を容認するどころか、積極的に「動物化」を支援している

「一生懸命やっている」からといって、すべてが許される訳ではない。当然だ。物事を先に進めるには情熱が必要なのは否定しない。だが、情熱があるからといって「正しい」とは限らないし、肯定されるわけではない。そもそも「正しい」というのも暫定的な概念であり、時とともに変化するものでもある。

では協力隊員が「動物」ではなく「人間的」であるというのはどういう状態か。少なくても、安易な消費と安易なコミュニケーションに流れないこと、だとは言える。そのヒントとして、もう一度協力隊の生みの親の伴正一の言葉を引用する。

「それでは海外での協力活動は、奉仕とは言っても究極的には自分のためのものにすぎないのか」

という最終的な反問、極限的な課題との対決を迫られる。

―――伴正一「ボランティアスピリット」P.34

協力隊隊員の諸君、「自分のためか」という問と対決しているか?