無知と無能の間に

無知無能者、固人之所不免也

お役所ファンタジー

前回のエントリーの通り、シンゴジラを見た。その社会性ゆえに、映画以外のジャンルの批評がよく目に着く。

そのなかで、辻田 真佐憲氏が寄せた、『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」と題されたコラムがあった。辻田氏は、この中で政治家と官僚が覚醒することなどありえないと書く。

官僚機構という巨大な精密装置は、その構成要素の歯車がきちっとハマると、大きな成果を生み出す。その一方で、巨大で精密であるがゆえに、逸脱は許されず、従って不測の事態にあってもなお修正がきかない。映画の中では組織を逸脱した人々が集められたが、結局は組織化されてゴールに向かってまっしぐらに突き進む姿があった。逸脱者であっても、逃げず、さぼらず、イケイケドンドンになってしまうというのは、やはり「お役所ファンタジー」とでも呼ぶべきものなのかもしれない。

ある霞ヶ関の官僚はシンゴジラを見て「コピー機の部分が一番リアリティがあって興奮した」と語ったという。どのキャリア官僚にも駆け出し時代には、資料のコピーを大量に取る役回りを経験し、どこの場所に分速何枚のコピー機があるか頭に叩きこみ、徹夜して何万枚のコピーをとったという武勇伝をもっているものなのだそうだ。

映画を見て、コピー機という矮小事象に目が行くというこのエピソードは、辻田氏の指摘するところの官僚像とオーバーラップする。役人というのはそういうものらしい。