無知と無能の間に

無知無能者、固人之所不免也

強い人間を飲み込む弱い人間の沼

※ネタバレがある。

話題となっていた映画「沈黙 -サイレンス-」を観た。話題となっていたとは書いてみたものの、集客に苦労していたのかはたまた見に行こうと腰を上げたのが遅かったのか、どこの上映館も平日は日中に1回のみの上映で、夜の上映がある映画館は行動圏から大きく外れていたので、なかなかタイミングは合わなかった。

もともと遠藤周作の小説で、マーティン・スコセッシ監督が28年間リメイク版の作成を温めていたものだ。内容を語るのもおこがましいが、キリスト禁教令下の江戸時代の長崎が舞台で、そこに日本人のキチジローを案内役にポルトガル宣教師セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペが秘密裏に日本に潜入し、布教活動を始める。しかし奉行所の取り締まりは厳しく、宣教師ロドリゴも囚われて棄教を迫られるという展開だ。

作品は人間のもつ信仰心が大きなテーマであり、どんな拷問を受けても信仰を捨てない強い人間と、簡単に意志を曲げ、信仰を貫けず、家族や友人を裏切る弱い人間が描かれる。事前に聞いていた通りに、良い作品だった。とはいえ、突っ込みどころはたくさんあるし、そもそも万人受けする楽しい作品ではない。

もちろん、強い人間と弱い人間、そして信仰について考えさせられた。信仰を形式的に捨てざろうえなかったロドリゴは弱い人間だったのか?すぐに裏切る(ユダのように)キチジローは本当に弱い人間だったのか?原作者の遠藤周作は「キチジローは自分の分身」と言ったともいう。自分は弱い人間に甘んじているだけなのか、強い人間になろうと志しているのか?しかしそれ以上に、喉にトゲのように引っかかったのは、イッセー尾形が演じたお奉行のイノウエ様と、浅野忠信が演じた通訳の武士が見せる組織社会日本の姿であった。

宣教師ロドリゴに対してイノウエ様が棄教をたびたび迫る。「お前が宣教師であるかぎり、キリシタン達の苦しみが続く。お前は宣教師でありながら、これを見捨てるのか」と。ロドリゴはいう「自分を拷問にかけて殺せ」。イノウエ様は返答する「お前を殺して殉教者にすればキリシタンの信仰は強くなる。お前は殺さない」。つまりイノウエ様が聖書を理解している人物(=元切支丹、そして棄教した弱い人間)である、というのが分かるニクい構成になっている。そして、イノウエ様は語る「日本社会とは『沼』だ。どんなに種を巻いても、『沼』から芽がでることはない。すべて『沼』に飲み込まれてしまうのだ」。