無知と無能の間に

無知無能者、固人之所不免也

協力隊物語と下妻物語

協力隊員のブログを読んで、なぜこんな状況になっているのか。いや、以前からこのような状況で、それがブログによって可視化するようになっただけなのだろう。

再び、ブログを書くということ

詩人の荒川洋治はブログを書くことについて以下のように述べていた。

 ブログという自己表現は危険である。ブログは、人に見られている、人に読まれているということを前提に書いている。ブログは自分のことをどんどん書ける。どんどん書ける、たくさんの言葉を使っているということは、逆に「自分が無い」という状態でもある。「自分はあるんだ」「いま、自分のことを書いている」と書き手は思っているかもしれないが、実は希薄だったりする。自分が無いからどんどん書けるといえる。

もうひとつ、マックス・ウェーバーの言葉も引用する。

学問領域で「個性」をもつものは、その個性ではなくて、その仕事(ザッへ)に仕える人のみである。しかも、このことたるや、なにも学問の領域にばかり限ったことではない。芸術家でも、自分の仕事(ザッへ)に仕えるかわりになにかほかのことに手を出した人には、われわれの知る限り偉大な芸術家は存在しないのである。

―――マックス・ウェーバー「職業としての学問」岩波文庫版P.27

(特にブログに熱心に取り組んでいる)協力隊員は、仕事に仕えていると言えるか?その問を自問自答しているか?ブログの情報発信は仕事(ザッヘ)と言えるか?

協力隊員のブログは、ただの余興にすぎない。ブログでの情報発信は、協力隊員の為すべき仕事ではない。であれば、ブログを熱心に取り組むほど、ボランティア活動に向き合っていないということだ(あえて断言)。「それは個人の自由」。本当か?

下妻物語

ところで、「下妻物語」を思い出した。

県道の両脇は、ひたすら田んぼがつづく、「ド」がつく茨城の田舎。そこにやってきた主人公の桃子。彼女は、両脇に田んぼの広がる茨城のあぜ道で、常にロココ趣味(要するにロリータ・ファッション)のファッションで身を包み、我が道をいく。桃子は、自らのロココ趣味を貫く姿勢について、説明する。

他人の評価や労力を査定の対象とはせず、自分自身の感覚で、これは嫌い、これは好きと選別していく究極の個人主義 ―――嶽本野ばら下妻物語―ヤンキーちゃんとロリータちゃん」P.10

桃子は、続ける。

「人の価値観なんてそれぞれなのです。私は途上国の貧しい人々を救うことに生き甲斐を感じ医師として働く人が抱える信念や哲学と、ロリータな格好に魅せられ、ロリータの源泉であるロココな美意識に生きることを選択した私の信念や哲学の間に優劣はないと思うのです。もしかすると私のその考えは間違っていて、もしもロリータに生きるという私の志がとてもくだらぬ、更にいうなら最悪なものだったとしても、私はその生き方を捨て去りはしません。誰の眼から見ても只のクズであったとしても、私の眼に、それはダイヤモンドよりも、イリオモテヤマネコよりも、貴重で必要なものだと映るのであれば、私は迷わずそれを最も大切なものとして死守していきます。それが私のやり方なのです。(中略)自分で見つけ出した自分の価値観を尊重せずして何になるというのでしょう。人という字は一人では成り立たない、誰かと誰かが寄り添い合い、支え合うことによって人という字が出来上がる、だから人は一人でなんて生きていけないのだなんてしかつめらしく語る人達がいますが、それなら私は人でなくてもよい、人でなしでも構わない」 ―――嶽本野ばら下妻物語―ヤンキーちゃんとロリータちゃん」P.56

これが、「個人主義」を貫く覚悟だ。

個人主義の是非論はここでは深追いしない。ただ、協力隊のブログを読んで、横溢する自己と、批判を受け付けない態度。途上国においての、自分の活動や行動への無批判さと、それこそ「他人の評価や労力を査定の対象とはせず、自分自身の感覚で、これは嫌い、これは好きと選別」の表明。要するに、「協力隊のブログ」なるものは、自分の都合に合わせて意見を表明する「ご都合主義」だ。

「独善に立脚した個人主義」そのものだ。それでいて自分たちの独善行動を個人主義に立脚することなく、「絆」だとか「仲間」だとかを持ちだして、自分自身の個人主義への立脚をごまかす姿勢。覚悟の無さどころか、自覚すらない。理論武装の杜撰さ。それが苛立ちの根源だったのだろう。

協力隊員達よ、「そうさ、俺達のやっていることは独善で偽善だ」と言い切れ。そして、ブログなんてやめて、自分と向きあえ。

無理だろうな。