無知と無能の間に

無知無能者、固人之所不免也

KeiKawakita氏とJiburi.comの協力隊ブログは読む価値がないと断言できる「たった一つの理由」:その1.1、イナゴの生態とは?

弊ブログでは、青年海外協力隊としてパナマに滞在していた経験をもつ宮﨑大輔氏のブログを分析したが、氏の反応らしきものをご紹介いただいたので、若干の補足を加える。

自分の感覚

さて、宮﨑氏は、Twitterで以下のようなコメントを残している。

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「一生言ってろ」

と、口をついて出てしまうが、本論に戻ると弊ブログで再三にわたって取り上げたあの「自分」という奴だ。臆面もなくまた出てくるわけだ。

自分の感覚を頼り生きるということ

私は、宮﨑氏を「イナゴ」と評した。それはどいうことか。氏の有料コンテンツから引用。

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約7ヶ月後。

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有料コンテンツなので、中身はわからない。金を落とす気にはなれない。そもそも、ここに技術論が書かれているとも思えない。ブログの記事から類推すると「小学生の詩集レベル」と書くと、小学生に対して失礼な気がするので、その表現は使わない。

なぜこんな出鱈目を書いていられるのか?その答えも自分で用意していてくれた。

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「飽きた」。そう「飽きた」。自分の感覚なるものに従って、飛びつき、自分のちっぽけな器が満たされたら、次の「自分の感情を慰安してくれるもの」へと移動を開始するわけだ。まさに「イナゴ」。「イナゴ」みたいに次の土地へ大移動するのだ。挙げ足取りだろうか。いやそんなことはない。なぜなら、ご本人もお認めになっているからだ。

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「自分」なるもの再考

長いが、橋本治『ああでもなくこうでもなく3』から引用する。

クロートというのは『技術』によって成り立っていて、その『技術』とは仮面のようなものである。

(中略)

クロートというのものは、自分の技術で『自分』を覆い隠してしまう。だから、クロートには『自分』がない。有能な技術者が家に帰ったら『無能なお父さん』になってしまうことがあるのもそのためで、有能なクロートの専業主婦が、ときどき『私の人生ってなんだったの?』と悩んでしまうのもそのためである。しかし、それでいいのである。クロートにとって『自分』とは、『自分の技術』という樹木を育てる土壌のようなもので、土壌はそれ自体『自分』ではないのである。一本の樹木しかないことが寂しかったら、その土壌からもう一本の樹木を育てればいいのである。それを可能にするのが『自分』という土壌で、土壌は、そこから芽を出して枝を広げる樹木ではないのである。だから、クロートは技術しか問題にしない。クロートの自己表現は技術の上に現れるもので、技術として昇華されない自己は、余分なものでしかないものである。

(中略)

ところがしかし、シロートは技術を持っていない。技術を持っていないからこそシロートで、そのシロートは『自分』を覆い隠すことが出来ない。すぐに『自分』を露呈させてしまう。ただ露呈させるだけではなく、露呈させた自分を問題にしてしまう。『自分とはなんだ?』などと。

橋本治『ああでもなく、こうでもなく3 「日本がかわってゆく」の巻』マドラ出版、2002年

宮﨑氏は「農業コンサルタント」を自称しているので、引用文献もあえて「土壌」を比喩にしているものを探してみた。でも通じないだろう。なぜなら、氏の農業に関するブログ(ほとんどそのような記事は無いが)からは、自らの体験を通した記載というものがない。あえて断言するよ「農業コンサルタントを表明できる要素は何一つ無い」。だって、農業に従事して生計をたてた経験はゼロなんだから。そして「自分」なるものを偽るために「イチゴコンサル」なんてものをでっち上げている。悪質だぜ。

宮﨑氏は海外での体験を自分の中に入れているようだが、それを咀嚼もせず、消化もせず、ただ垂れ流しているだけだ。宮﨑氏の「自分」とは橋本治の比喩を借りれば「土壌」ではなく「ゴミ箱」だということ。私は中を覗いてみましたが、中は生ゴミで溢れかえっていました。そこから漂うのは「自分語り」という悪臭でした。

つまり、「研ぎ澄まされた自分の感覚」という言葉を使う人間の感覚は腐っているということだ。結局、何万Km離れた所に行っても、何カ国の土を踏んでも、どんなに素晴らしい絶景を眺めても、薄っぺらな人間は薄っぺらなのだ。氏のSNSからはそんな、わかりきった事を再認識させてもらった。ここは「ありがとう」というべきだろうな。