東京国際映画祭チケット販売システム問題備忘録
2016年10月末に開催された「東京国際映画祭」のインターネットによるチケット販売が酷すぎる状況であった。システム開発での失敗事例と、翌年以降のチケット購入のために記録として書く。
時系列
時系列として、2016年10月15日の正午より映画祭のチケット販売(ネットおよび電話)がアナウンスされていた。
- 10/15 12:00 チケット販売開始
- 同直後 サーバーに接続できない、白画面が出る等の情報がTwitter等で広まる
- 15:00過ぎごろからチケットがとれた等の情報が出回る
- 10/16 15:00頃、運営よりシステム障害を伝えるメールあり
- 同メールで代金決済されてもQRコードのチケットが送られていない場合は、「座席確保されていない」ことが伝えられる
- 10/16 18:30頃、運営より再度メール
- 同メールで座席確保できずにチケット代誤決済されてしまった人を対象に先行発売を行なう旨がアナウンス
- 10/17 9:00頃、運営よりメール
- 同メールで座席未確保分のチケット代金の返金と先行発売が再アナウンスされる
- 10/17 23:00頃、運営よりメール
- 同メールで
- 10/18 12:00頃、運営よりメール
- 同メールで先行発売用のURLとログインIDとパスワードが送られてくる
- 10/19 12:00、先行チケットの発売開始
- 同直後 サーバーに接続できない、白画面が出る
- チケットへのアクセスをしている人たちに不安が広がる
- 同日 深夜に、QRコードがついたチケットがメールにて配信が始まる
- 同一座席の予約に複数のQRコードが送られてくる場合があった
- 複数おくられても問題ないことがアナウンスされる
状況整理
- 10/15での販売時に、座席指定後から決済(クレジットカードまたはコンビニ決済)への移行時に座席が確保されていないにも関わらず、決済画面に遷移して決済してしまった購入者が続出。
- 10/15の販売時に、ユーザのリロード(再読み込み)処理により、この回数分のチケット代金の請求が行われたとの情報あり(12回クリックしたら12席分のクレジット決済が行われた)
- 再販売時に、入金確認とチケット送付にタイムラグ。しかも同一チケットに複数回チケットメールが送付される例が散見された
サポート体制
- 電話オペレータセンターは土日休み(土曜日に販売開始にも関わらず)
- 騒ぎ後、電話につながらない状態が続く
- 開催当日、劇場に当日対応受付が設置される
原因
設計書やコードを読んでいないため、あくまで推測。
- 座席の状況を保持したデータベースがロックしっぱなしになった
- 上記状況下でのアクセス時に、APIが「True」に類するものを返す
- あるいは、データベースとの接続がないとAPIが「True」に類するものを返す
- システムテストの不足(負荷テストはしていいないし、もしかしエラー系のテストもほとんどやっていないかもしれない)
- アクセス予測の読み誤り
いずれにせよ、システムのコストをケチって、趣味で作ったレベルのシステムで販売してみたとうところか(あくまで推測だが)。金をそれなりに使ったのであれば、発注先と受注先と実装先がバラバラで意思疎通が全くできていなかったというところだろう。それにしてもお粗末と言わざるをえませんねぇ。
わずかな金をケチっただけで、それ以上の費用をつかってリカバリー(と顧客フォロー)が必要というのは、典型的な失敗事例だ。しかも恐らく最後は人力で座席データと入金をチェックしていたのだろう。映画祭みたいに一時的なシステムなら既存の販売システムに寄生するか、どこかのチケット販売会社に丸投げすればいいのではないか?とも思うのだが、それすらできないほどに予算がないのか。日本の映画館の売上はシンゴジラや君の名はのヒットで大幅増という話も聞くが、このお寒い状況こそが、私達の「クールジャパン」なのだ。
廃棄人間処理業者の黄昏
東海地方のローカル局である東海テレビが、9月28日の放送の『みんなのニュース One』で戸塚ヨットスクールでの合宿内容を放映した。この合宿はなんと「3~10歳」を対象としたもので、4歳児と5歳児に体罰を加える場面も放映している。Youtubeにアップロードされていたのでリンクを貼っておく。
どういう内容かを書くのも不快だ。ヘイトウォッチングをお望みの奇特は方は、上記動画を見てもらえればいい。戸塚氏が本当に汚いやり口をするのだな、と思う点は、「嫌がる4歳児を海に投げ入れる」など、身体に外傷などが残らないような方法をとっているからだろう。恐らくは、傷害事件等で立件されないように工夫している。だてに、長年この方法でメシを食っているだけのことだけはある。
それにしても、どうして戸塚氏は、テレビカメラの前で幼児体罰の映像を撮らせたのだろうか?しかも、相変わらずニヤニヤしながら、見せつけるように、だ。この点について考察してみたい。
戸塚氏が悪目立ちを狙う理由
不思議な話である。なぜ、テレビの取材を受け入れたのだろうか?戸塚ヨットスクールの事件で、散々とマスコミから罵声を浴び、事あるごとにマスコミへの憎悪を示している。それにしてもマスコミを憎悪しているのであれば、取材者に対して、暴言を吐き、モノでも投げながら怒りでも示すようなものだ。
しかし、実際は違う。「マスコミが嫌い」といいながら、こわばった笑み(例のニヤニヤ顔)を浮かべながらテレビの前でコメントする。そして「体罰は必要」「体罰は教育」「体罰は相手の潜在能力を引き出す」等々の持論を展開する。
マスコミ嫌いを自称する人物がマスコミの前でニコヤカに話す理由は簡単だ。自分のビジネスの宣伝になるからだ。戸塚氏が「体罰は善」と称し、幼児を海に放り出すような醜悪な画像を放送されれば、99.9%の人間は不快になる。しかし、手の掛かる幼児の躾を放棄したいと願っている0.1%の親にメッセージがとどけば、戸塚氏はOKなのである。彼にとって99.9%の人間からの批難は織り込み済みで、屁でもないと思っている。戸塚氏を「産業廃棄物処理業者」と呼んだ人がいたが、要するに、その通りなのだ。
マスコミの対応
今回の件でもうひとつわかったのは、様々な子供の虐待やイジメに関する事件があるたびに、マスコミは戸塚氏のところにコメントを取りに行っていることだ。なぜ、体罰肯定の人物にコメントを求めるニーズが発生するのか?体罰を否定する論調だけで番組や記事を構成すれば、単調になり面白味にかけるが、体罰肯定のコメントを入れることで構成が立体的になり深みがでる・・・とそういう風に考えているからだ。
ところが、体罰肯定派という人間はなかなかいない。心の奥底では体罰を肯定しているような御仁でも、それをマスコミの前で開陳すれば、社会的地位を失いかねない。
その点、戸塚氏は無敵だ。体罰でビジネスをしているわけだから、カメラの前で体罰肯定論をぶち上げてもなんら損失にならない。それどころか、体罰肯定メッセージを発することで自分のビジネスの宣伝にもなる。だから何らか事件(イジメや体罰)があれば、俺のところにコメント取りに来いとまでいう。さんざん、マスコミに叩かれたことに恨みを抱いているにも関わらず、だ。
かくして、「体罰肯定のコメントを取りやすい」という理由で、氏のところにマスコミは向かう。それどころか過去の記事の中には、戸塚氏の自己肯定理論に影響を受け、「『いかなる体罰・暴力も厳禁』という風潮は再考せよ」と、「盗人にも三分の理」のような論調まで発生することになる。ディレクター的には、「議論に深みが加わる」とかなんとかということなのだろう。
教育を放棄する親
金を使ってでも子供の教育を放棄したい親がいる。百歩譲って、家庭内暴力や非行で疲労困憊した上で、戸塚ヨットスクールへ子供を預けるというのであれば、まだ解らなくもない。しかし3歳、4歳という幼児を、短期とはいえ、体罰が加えられると分かっているところに預けるというのはどういう神経なんだろう。
3歳、4歳というのは、極めて不合理な理由で癇癪を起こすし、親のいうことを聞かないということもあるだろう。それが、この年頃の子供の仕事だといってもいい。親からすれば、戸塚の所に一度預けることが楽なのだ。子供のわがままに付き合わなくてもいいし、自分の。その後、子供が駄々をこねたら「また、戸塚ヨットスクールへ入れるぞ!」といえば、その恐怖から直ぐに従順になることだろう。しかし、このような目先の楽さを手に入れても、後々、子供との関係がどのようなものになるか分かったものではないぞ・・・といったところで、この手の親は聞く耳持たぬのだろうな。
まとめ
要するに、体罰ビジネスを展開している戸塚氏と、教育放棄したい親と、マスコミが互いに共栄関係にあるということだ。その被害者は、このような親に、このような社会のもとに生まれ育った子供たちということだ。幼児だろうが青年期だろうが、受けた暴力は忘れることはない。児童虐待が連鎖するというのは、様々な調査で明らかになっているわけで、これは将来に禍根を残すことになる。
戸塚氏がああなのは、もう矯正しようがない。これから仮に刑務所に入ったところで、あらゆる事柄について自説を強化するだけだろう。
マスコミ各位には、とことん戸塚氏を無視することを切望する。でも、無理だろうな。「理想論では世の中回らない」と思っている人が大部分であるし、なにより「人間は変わらない」のだから。そして、戸塚氏は、そのことを証明してみせている。
最終局面
10月7日に、ワシントン・ポスト紙が2005年のNBCの番組収録前の会話を録音した内容のを暴露した。
日本のマスコミの報じるところでは、「女性蔑視の暴言」「スターなら、彼女たちは何でもやらせてくれる」という報じ方だ。ただこれだと「いつものことじゃないか、何をいまさら」という感想にしかならない。ただ今回はまるで破壊力が違う。これは原子爆弾級で、Wikileaksが同じ時期にばらした反ヒラリーのネタ(ウォール街の講演会で自由貿易礼賛したのはマニフェストと矛盾する等)は、線香花火にしか過ぎない。
これは番組司会者とトランプが過去にアシスタントについた女性と今日アシスタントについた女性について発言したものだ。以下のような内容だ。
「じつは迫ったことがあるんだ。あの女。誘惑したんだけどな。失敗したんだ」「ファックしようとしたんだ。あの女は結婚していたけどね」「俺は美人を見ると本能のおもむくままに行動するんだ。すぐキスしてやるのさ。磁石みたいなもんだ。キスだけだけど。スターだと何でもやらせてくれるんだぜ。何をやってもかまわない。そしてマ◯コをつかむんだ。何でもできる」
「メキシコ移民はレイプ魔だ」と叫んでいた男が実はレイプ魔だったいう。まさにブーメラン。苦渋の選択としてトランプ支持を打ち出していた共和党議員も支持撤回を表明した。自分たちも選挙がある、女性票をゼロにする訳にはいかないからだ。
そして10月9日に行われた2回目の討論会には、このテーマについてビル・クリントンにホワイトハウスでレイプされたとする4人の女性を招くという作戦できた。最初のテレビ討論会では大統領に色気が出たのかプロレススピーチを控えていたが、ここからはタガが外れたようにやってくるのだろう。
アメリカの大統領選挙は1年も時間をかけるというのは、一見無駄なように見えて、候補者の人間性をあぶり出す上で必要なコストなのかもしれない。東京都知事の過去何代にもわたるグダグダぶりと対比すると、一層強くそのように思えるようになる。
参考
ポケモンGOが開けた扉
先日、東京都内の某公園を夜9:00ごろ通ったが、夜に都心とは思えないほど暗い公園の中でスマートフォンに見入りながら、右往左往する群衆を見た。そう、ポケモンGoに興じる一群だ。という私も、用事の帰り道に立ち寄ったとはいえ、ポケモンGoをやりながら彷徨う一人であったわけだが。
それはさておき、このような現象が発生すると、必ず「自分はやっていない」「興味が無い」と頭から否定する言説を振りまく人間が現れる。人間の群体としての性質は面白いもので、ブームにはカウンターが発生する。否定する人たちというのは、他人に冷水を浴びせかけることで自分が他者より優れているということをアピールしにかかっているのだ。しかし、その手の人たちに火をつけたというものを「社会現象」というのであり、ポケモンGOはまさに興味深い社会現象だ。
さて、ポケモンGOの実装面に着目してみる。ポケモンGOはプロトタイピングの申し子といもいうべきほど、手軽につくられている。地図情報はGoogle Mapそのものだし、ポケストップやジムの位置情報はGoogleの社内ベンチャーとして始まったIngressのユーザーが集めてきたスポットをそのまま流用して作っている。ゲームのベースラインもIngressから引っ張ってきている。ポケモンGOは寄せ集めの技術で作り上げたものだが、関連記事を読むとアイデア着想からサービス開始まで2年しかかかっていないという。恐るべきスピードだ。
つまりポケモンGOは技術面で新しい物は何もない。GPS情報を使ったゲーム、いわゆる「位置ゲー」もIngress以前にあった。ARもすでにあった。しかも、ゲームの操作は至ってシンプルで、目新しいギミックはほぼない。ではポケモンGOは何を生み出したのか?その問について、ポケモンGOはソニーのウォークマンに似ている。
ソニーのウォークマンは「音楽をパーソナル化して外に持ち出す」ことに成功し、ゲームチェンジを果たした。今からは信じられないことだが、ソニーウォークマンが出るまでは、音楽は部屋のでかいスピーカーでソファーに腰を掛けながらゆったりと楽しむものであった。ウォークマンが登場した時、やはり嘲笑を持って迎えられた「外で音楽を聞くバカはいない」。しかしウォークマンは熱狂的に受け入れられ、同様にカウンター勢力から批判され、ヘッドホンの音漏れで殺人事件が起きるというようなことも起こった。しかし時間をかけてこの社会現象は音楽文化になった。
ポケモンGOは「野外空間をパーソナル化して、歩行移動を作業からエンターテイメントに変えた」といえる。ゲームの些細なことは色々と議論があるだろうが、位置ゲーとARの可能性を多くの人(世界で数千万人いるというアクティブユーザー)に認識させたことが重要だ。これでポケモンGOを超えるものを企むチャレンジャーが現れるはずだ。ベンチャーキャピタルの財布の紐は確実に緩んだ。
ポケモンGOがこの先も勝者になりうるかどうかは分からない。しかし、少なくとも「位置ゲーは儲からない」という仮説をふっ飛ばした。
参考
シンプルな理由のシンプルではない背景
読んだ。
- コンビニがコーヒーで成功して、ドーナツで失敗したシンプルな理由 - 現代ビジネス 加谷 珪一著
「シンプルな理由」みたいな今どきの耳目をひこうとするタイトル(「キャッチー」とかいうのか?)の記事は、注意深く読まないといけない。「コーヒー大成功には理由がある」と書いたうえで、その分析は「コーヒーの市場規模が大きから」という。その根拠として、スターバーックスなどのコーヒーチェーンの売上と比較して、以下のように書いている。当該記事より引用。
コンビニ・コーヒーの規模はすでにコーヒー・チェーン大手を上回っているのだ。 (中略) ところが不思議なことに、これほどの規模の競合が出現したにもかかわらず、既存コーヒー・チェーンは思ったほどの影響を受けていなかった。少なくとも現時点においては、コンビニ・コーヒーは既存のコーヒー・チェーンの顧客を根こそぎ奪っているという状況にはなっていない。それどころかコンビニ・コーヒーは、外で気軽に珈琲を飲むという習慣を定着させたという意味では、むしろ新しい需要を生み出したと考えてよいだろう。
ズッコケそうになった。なんとも底の浅い記事だ。
コンビニコーヒーの直接の競合は「スターバーックスなどのコーヒーチェーン」よりも、販売価格と販売網の重なりあいからいっても「自動販売機の缶コーヒー」だ。直接、缶コーヒーの販売データを掲載した資料は見つからなかったが、参考に上げた論文の中に「缶コーヒーの売上が2005年をピークに右肩さがり」としている。
そもそも、参考文献の2番目にあげた記事にもあるように、コンビニコーヒーはいきなり登場してホームランをかっ飛ばしたわけではない。長い間、何度もチャレンジと失敗を繰り返したうえで(この記事では30年としているが)、やっと成功といえるものを掴んだのだ。
何度も試行錯誤した結果、今のコンビニのカップコーヒーはよくできている。販売するコンビニ側の利点は以下のようなものだ。
- 客が自分でドリップマシーンを操作するので、店員の労働時間を使わなくてもよい
- 味についても砂糖やミルクをその場において、客が自分で調整してくれる。
- ホットコーヒーについてはカップをレジ内でストックするので店舗の商品ケースを占有しない
特のキーポイントとなるのが、客が自分でドリップマシーンを操作するというものだ。コンビニに設置されたドリップマシーンは、「カップをセットしてボタンを押すだけ」のシンプル設計になっている。そして、ホテルやファミリーレストランにドリンクバイキングが当たり前のように存在するようになり、そこにドリップマシーンが置かれるようになって、客が自分自身で機械を操作するという行為に抵抗がなくなったとう面がある。コンビニ側の継続した努力とともに社会風習のちょっとした変化がマッチしたという点は重要だ。
一方で、客の利点は、ある程度の労力を引き受けることでスモールカップ100円で、コーヒーチェーンが提供するような味のコーヒーが楽しめるという寸法だ。
記事が指摘するようにドーナツ販売は、カップコーヒーがうまく行ったから、コーヒーにお供にという理由で提供した点は否めない。しかし、一発目だ。おそらくチャレンジは続いていくのだろう。しかしドーナツからまったく別なものに変わっている可能性はあるかもしれない。和菓子かもしれないし、現時点で想像もつかないものなのかもしれない。
コンビニコーヒーとコンビニドーナツに通底するものは、手垢のついた言葉だが「変化を追い求めている」ということだ。常にコンビニエンスストアが「頭打ち」「市場飽和」などというキーワードで語られている状況に反し、ブルドーザーの如く今でも流通業界を突き進んでいる。この状況は、新規の取り組みにチャレンジしていこうという文化が根付いているからできることだ。コンビニのコーヒー事業もドーナツ事業も一断面に過ぎない。最初に取り上げた記事には、この視点が欠けている。
参考
- 缶コーヒー市場の変貌と商品戦略 - 広島県大学共同リポジトリ(PDFファイル)
- セブンカフェ成功の裏にあった「30年戦争」 - 東洋経済オンライン
レスラー・トランプ
ドナルド・トランプが正式に共和党の大統領候補に指名された。泡沫候補と目され、共和党内から激しいバッシングを受けながらも、ここまでやってきてしまった・・・というところか。
さて、日本のマスコミのトランプ評は、総じて「実業家」「ホテル王」「毒舌家」「反ウォール街や移民排斥感情をうまく取り込んだ」というようなものだ。要するに超大国から転落しつつあるアメリカで、不遇を囲っている中の下あたりにいる白人男性の受けが良いキャッチフレーズを放言することでここまで勝ち進んできたという分析だ。
町山智浩氏が出演しているラジオを聞いて、なるほどと思った点がある。それは「プロレスラー」として側面だ。そして、日本のマスコミは総じてスルーしている点も注目だ。
ドナルド・トランプは、WWE(World Wrestling Entertainment以前はWWFとよばれていた)アメリカのプロレス団体とつながりがある。WWFは、ハルクホーガンが所属していたということで思い出す人もいるだろう。そして日本人には信じられないことだが、このプロレス団体はニューヨーク証券取引所とNASDAQに上場している。このあたりがアメリカの資本主義の業というものか。
さて、トランプはこのWWEのオーナーであったことがある。2007年にWWEのCEO ビンス・マクマホンとリングの上で戦って勝利したからだ。タイトルマッチの名前は「バトル・オブ・ザ・ビリオネアーズ」。訳すると「億万長者の決戦」か。その時の動画がYoutubeに上がっている。
会場に100ドル札を降らせ、トランプもマクマホンも髪型があやしい(要するにカツラ疑惑)ので、負けた方がバリカンで坊主になるというものであった(結果はWikipediaに記事があるので、気になるひとはそちらを参考に)。プロレスなので、いわゆる「お約束」といったものだ。実際、トランプのWWEオーナーの権利はすぐにビンス・マクマホンにもどっている。どこまでネタでどこまで本当なのか、何を信じて良いものやらわからなくなるが。
さて重要なのは、町山氏も指摘しているように、トランプが「どうすれば大衆受けするか?」という命題に対して、このWWEでの体験が大きな影響を与えたというところだろう。プロレスの観客は、中の下、有り体にいえばウダツの上がらない落ち目の白人男性である。共和党の党員集会も同様だ。要するにトランプはプロレスで学んだリングトークで、悪役レスラーをなじるのと同じ方法で共和党の主流派候補を攻撃し、罵倒し、大統領候補の座を手にいれたということだ。
さて、一方の民主党はヒラリー・クリントンに大統領候補が決まった。こちらも嫌われ者だが、トランプよりマシということで、本命だろう。トランプに勝機があるとすれば、テレビ討論会でプロレスラーの煽り絶叫で挑発し、クリントンから「感情的な態度」を引き出したときだろう。そのとき「あんなヒステリーに軍の最高司令官は務まらない」「核兵器のボタンを任せられるのか?」と畳み掛けることができたら・・・トランプ大統領がありえるかもしれない。
お役所ファンタジー
前回のエントリーの通り、シンゴジラを見た。その社会性ゆえに、映画以外のジャンルの批評がよく目に着く。
そのなかで、辻田 真佐憲氏が寄せた、『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」と題されたコラムがあった。辻田氏は、この中で政治家と官僚が覚醒することなどありえないと書く。
官僚機構という巨大な精密装置は、その構成要素の歯車がきちっとハマると、大きな成果を生み出す。その一方で、巨大で精密であるがゆえに、逸脱は許されず、従って不測の事態にあってもなお修正がきかない。映画の中では組織を逸脱した人々が集められたが、結局は組織化されてゴールに向かってまっしぐらに突き進む姿があった。逸脱者であっても、逃げず、さぼらず、イケイケドンドンになってしまうというのは、やはり「お役所ファンタジー」とでも呼ぶべきものなのかもしれない。
ある霞ヶ関の官僚はシンゴジラを見て「コピー機の部分が一番リアリティがあって興奮した」と語ったという。どのキャリア官僚にも駆け出し時代には、資料のコピーを大量に取る役回りを経験し、どこの場所に分速何枚のコピー機があるか頭に叩きこみ、徹夜して何万枚のコピーをとったという武勇伝をもっているものなのだそうだ。
映画を見て、コピー機という矮小事象に目が行くというこのエピソードは、辻田氏の指摘するところの官僚像とオーバーラップする。役人というのはそういうものらしい。